クラシック音楽を楽しむ広場

クラシック音楽を聴いた感想を記します。

デュリュフレ:レクイエム…100年後に聴かれている作曲家 音楽考察

今回は、第二次大戦後に初演されたレクイエムを作曲した デュリュフレ を聴いてみます。疲れたときは、静かな音楽に身をゆだねると、心地いいものです。

 

 聴いている演奏は、ミシェル・コルボ指揮 コロンヌ管弦楽団・合唱団によるデュリュフレの「レクイエム」と「グレゴリオ聖歌の主題による4つのモテット」ですが、ライナーノーツを読むまでは、デュリュフレを、バッハ以前の作曲家と思っていました。

 2回、3回と聴きこむとやはり、バッハ以前の宗教曲のようです。「怒りの日」(レクイエムに出てくるパラフレーズ《ディエス・イレ》)もありません。

 デュリュフレのレクイエムは、どことなくフォーレのレクイエムとにているなあ、という印象を持ちました。CD作品を聴いてから、調べると、1902年生まれのフランスの作曲家で、この作品の初演は1947年。フォーレがレクイエムを書いてから、半世紀後の作品であることを知りました。

 モーリス・デュリュフレは、オルガニストとしても活躍し、19世紀末から、20世紀にかけて音楽を形成した後期ロマン派のワーグナー、12音階技法のシェーンベルク・ベルクのような何か新しい音楽手法を編み出した作曲家でないように思います。

 ただ、デュリュフレが、伝統を重んじる作曲家であったこと、創作に吟味に吟味を重ねた慎重な作曲家であったことは、作品を聴けば、たちどころに分かります。

 フォーレ・レクイエムの発表後の作品であることからも、多少の影響はあるにしても、20世紀の中で、古典を大切にしながら、同時代の影響を受けず、作品を創作できたことに驚きます。

 

 現代音楽は、何年も、年月が流れた後、いずれ古典になるでしょう。メシアンの「鳥のカタログ」でもすばらしいと思いつつも、自然の自然の鳥の声を聞いたほうが、心地よいと思う時もあります。

 片や、それを言っては、芸術は成り立たないという意見もあります。聴き手(私)が時代についていってないともいえます。「春の祭典」は、心から名曲だと思います。しかし初演時の観客の反応は、受け入れられないの一言であったと、きいています。

 バッハ、ベートーヴェンの後に生まれた我々だから、その音楽を堪能できる、特にレコード・CD世代は、コンサートにいかずとも気軽に曲を確認できます。

 今、現代音楽と言われる音楽が、今後どう評価されるか、楽しみです。

一方、いまある音楽、バッハ・ベートーヴェンシューベルトドビュッシー・ラベルなどなどを楽しむだけでも、心底十分です。それら作品をじっくり心から聴きこむ。

 音楽は心を豊かにしてくれます。よい音楽に巡り合いたいです。

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ハイドン :ピアノ・ソナタ 第49番 明快、実直な古典音楽

 

今回は、古典派の作曲家ハイドンの鍵盤音楽を取り上げます。

 

交響曲弦楽四重奏曲分野での器楽形式を完成させた ヨーゼフ・ハイドン

 同じ古典派でも、モーツァルトやベートーベンのピアノ曲は、頻繁に演奏で取り上げられ、録音も多く出ています。一方、ヨーゼフ ハイドンのピアノ・ソナタは、全集も限られ、1枚のCDで、有名な4ソナタ程が入っている盤が多いです。

 

ハイドンの77年の生涯において、多くのクラヴィーア(鍵盤)・ソナタを残しました。

その数は、52曲とも54曲?また62曲とも言われています。

 

その曲数が定まらない理由は、今から、200年も前のことでもあることに加え

1. ハイドン自身、自らの作品を厳しく吟味し、初期の習作の出版をしなかったこと

2.30年に渡り仕えたエステルハージ伯爵邸が、火事により、ハイドンの自筆譜が消失したこと

3.ハイドンの名声はヨーロッパ中に知れ渡り、ハイドンの名を冠した他人の作品も出版されたこと

 により、はっきりしないのです。

ハイドン鍵盤楽器の手本としたのは、バッハの次男 カール・フィリップ・エマーヌエル・バッハです。

ハイドンは、「カール・フィリップ・エマーヌエル・バッハ の作品を意欲を持って研究し、学んだ」と語っています。

 さて、なかでも、ソナタ第49番変ホ長調は、一つひとつの音の輪郭がしっかりしており、聴きやすく、ハイドンの鍵盤音楽の世界にひたることが出来ます。

 均整のとれた古典音楽は、作品自体が、高度に完成されており、今の時代のピアノで、弾いて聴かせるには、優れた見識と、技術。ピアノの感覚が要求されることでしょう。

 ハイドンのピアノ・ソナタのCDが多く出ていないのも、弾き手が、微妙にそこら辺の難しさを知るからとも推測します。

 聴く側からすると、それでも世に問おうとするピアニストの録音は、珠玉のようであり、実際、聴くと、とても新鮮な音楽です。とても、創意工夫に満ちた、なおかつ端正な音のたたずまいに引き込まれます。

 エマニエル・アックスのピアノで聴いています。エマニュエル・アックスは、カヴァコス、ヨーヨーマと、ベートーヴェン交響曲編曲版演奏を録音したりと、今でも活躍しています。

 アックスの演奏は、端正でありながらも、とても、躍動感があり、楽しめます。

 ハイドンピアノ曲は、最近、演奏家ポール・ルイス、クリスチャン・ベザインホウト(フォルテピアノによる演奏)なども取り上げており、今後、皆に知られ、なじみのある曲になると思います。

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メンデルスゾーン:交響曲 スコットランド 冒頭10小節の神秘的な雰囲気

今回は、メンデルスゾーンが、1842年に完成させた交響曲を紹介します。

 

所有するCDは、部屋の棚に並べていますが、私の年のせいか、CD縦面のタイトル文字が、ぼやけ、さがすのに苦労しています。ルーペを使わないと文字が見えません。

 自然と目と手が届きやすい棚から引っ張り出して聴いていましたが、今日は奥のほうの棚から名曲を見つけました。

 

 交響曲第3番「スコットランド」です。改めて聴くとなんて美しい曲だと心にしみました。

私は、この曲の冒頭10小節についての、メンデルスゾーンが放つ霊感にあふれた曲調が、とても気に入っています。

 

 曲の話は、メンデルスゾーン20歳の時、1829年のロンドンのフィルハーモニック協会の招待で、演奏のためにイギリスを訪問しましたが、スコットランド地方にも立ち寄ったことに始まります。

 

 この旅行で、「フィンガルの洞窟」と交響曲スコットランド」が生まれるきっかけになったのです。

 

 詩人のクリンゲマンとスコットランド を旅行をした際、エディンバラの旧宮廷ホリルード遺跡を訪問しました。

 

16世紀メアリ女王の統治時代いまわしい事件があったのです。

 

 女王に気に入られていた音楽家のリッツィオが女王に取り入り、政策にまで意見するようになったことから、国を憂う貴族がこの宮廷で、この音楽家を、あやめたのです。

 メンデルスゾーンは、この事件のあった旧宮廷の礼拝堂を訪れた際、最初の10小節を書き記したのでした。

 

 幽玄の彼方から湧き出るような、オーボエヴィオラで奏でられる楽曲から始まる交響曲スコットランド」ですが、着想は確かにこの時の印象に基づき書かれたと思うものの、絵画的描写もなく、ある意味、標題音楽でもありません。

 10小節を書いてから、次の作品交響曲「イタリア」など多忙で、スコットランド完成までには、13年もかかっているのです。メンデルスゾーン33歳の時です。だから、5年後に亡くなるまでに、これ以降は、交響曲を書かなかったので、実質上、最後の交響曲となったのです。

 4つの楽章は切れ目なく演奏され、大きな幻想曲とも取れると思います。

この「スコットランド」は、ペーター・マーク指揮、ロンドン交響楽団による1960年の録音演奏が、私のお気に入りです。

ペーター・マークならではの木管金管の繊細さが、際立つ端正な音楽づくりでありながら、歌わせるところは、ほのかな憂いを含んでいます。ソナタ形式の様式美に沿った曲で、各楽章は、起伏を大きく持たせて、音が明快で、実に聴きごたえがあります。

 このCDには、「真夏の世の夢」も併せて入っていて、メンデルスゾーンの醍醐味を楽しむことが出来ます。

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シェーンベルク:グレの歌 12音技法変遷前の傑作

 シェーンベルクの音楽を、CDで、初めて聴いたのは、ポリーニによるピアノ曲集で、クラシック音楽を聴き初めた時期でもあり、とても理解することが難しく、世の中にはこういう音楽もあるのかというのが、正直な感想でした。


 長い年月、シェーンベルクの作品に触れることは、無かったのですが、ここ最近、リッカルド・シャイー指揮 ベルリン放送交響楽団による演奏CDを、ふと聴いたところ、まず、曲冒頭の序曲に惹かれました。いったん、良い曲かな、と思い、聴きこむうちに、実に魅力が濃縮された作品であると気付き、シェーンベルクという作曲家を知る大きな転機となりました。
 
アーノルト・シェーンベルク(1874-1951)は初期においては、成熟したともいえる後期ロマン派を作曲(浄められた夜)し、

 続いて、ヨーロッパクラシック音楽の骨組である「調性」の新たなの段階ともいえる無調音楽(朗読入りの「月に惹かれたピエロ」)を創作しました。

 たどりついた先は、12音技法です。
相互に関連付けられた12の音を等分に扱う作曲技法作品には、《モーゼとアローン》があります。

 当初「グレの歌」は、ウィーン音楽協会主催のピアノ伴奏歌曲集の募集への作品として、1900年に作曲着手され、経済上の理由で、創作が中断し、1911年になって完成したという作品です。きわめて大規模な一種のオラトリオです。
12音技法の時に発表された作品ですが、グレの歌の着想それ自体は、それよりずっと前で、無調時代のものです。

 ピアノ伴奏歌曲版としてある程度の手ごたえをつかんだシェーンベルクの創作意欲はふくらみ、1900年ごろ、全体の構成ができ、オーケストラ版への作りこみも進んで行きました。
ようやく1911年に完成し、初演は1913年ウィーンの楽友協会で、F.シュレーカーによってなされ大成功を収めました。

 グレの歌のテキストは、デンマークの作家ヤコブセンの未完小説「サボテンの花開く」にでてくる、長編詩「グレの歌」です。

 内容は中世の王ヴァルデマールがグレ城の侍従の乙女トーヴァを愛するようになるが、嫉妬心を抱く女王によりトーヴァは毒殺されてしまいます。
 王ヴァルデマールは、想い人トーヴェの死に絶望し、激しい言葉「神よ、私もまた支配者だ」と神を非難し、呪ったため、天罰を受け亡霊となって永遠に森で狩りをし続けなければならなくなります。
 そうした中、トーヴァ自己犠牲の愛、死後もヴァルデマルを愛する愛の力によって、王は天罰を解かれ、太陽が昇ることを表わすモチーフ歌により、救済賛歌が示されるというものです。
 このストーリーは、デンマークの古くからの言い伝えによっています。
女性の健気な救済というのも、男の側からの見解によるやや都合のよい設定のドラマ仕立てになっていると言えます。

 作品全体が3部構成で、語り手と5人の声楽独唱者、4声3組の男性合唱と8声の混声合唱、オーケストラパートに180人を要する大規模編成です。

12音技法に到達する以前、つまり後期ロマン派の超大作とも言え、明確な調性を持ち、交響的効果と、ドラマ性を示した作品で、シェーンベルクの音楽が集約された形となっています。一方、同時に、後年、はっきりと示すことになる独自の書法も垣間見えます。

 シャイーのこの演奏CDは、録音された1985年当時、まだ32歳という、若さであり、演奏がみずみずしく感じます。また曲の進め方に勢いがありながらも、格調高く奏で照られており、シェーンベルクを身近に聴く一枚となっております。

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バルトーク:管弦楽のための協奏曲 貧困と病から力を振り絞り作曲

 

 第2次世界大戦時、しかもバルトークの故郷 ハンガリーはナチに占領という大変な時期に、アメリカへ亡命することになった59歳のバルトーク

 コロンビア大学で、民謡の研究で生計をかろうじてたてるという、貧困の真っただ中にいました。

 貧困の中、バルトークは、白血病にも罹患し、不幸のどん底に陥ったともいえます。

 そうした中でも、友人には恵まれていて、指揮者フリッツ・ライナー、またヴァイオリニスト ヨーゼフ・シゲティは、なんとかバルトークの生活を救い出そうと陰ながら援助をしたのです。

 この音楽家二人が、とった行動は、アメリカの作曲者協会に、バルトークの治療費を持ってもらうよう働きかけました。

 またボストン交響楽団の指揮者であったクーセヴィツキーを「ひそかに」説得して、

(というのもバルトークは誰かに温情を懸けてもらうとか、同情してもらうとかいう行為を極端に嫌った性格なのでした)

 

 そこは、事情を知ったクーセヴィツキーが、入院中のバルトークを見舞い、話を切り出します。クーセヴィツキー自らの財団から、作曲の委嘱を申し出、まずは委嘱料の500ドルを渡します。

 

 バルトークは、「もはやこの体では、作曲は不可能」と最初拒否しましたが、なんとかクーセヴィツキーは、説得に成功しました。

 

 困窮、病弱で不幸のどん底でも仕事が舞い込むと、生きる張り合いが生まれるものです。バルトークも、元気を取り戻し、作曲意欲が高まります。

 

時、1943年 約2か月で、この管弦楽のための協奏曲を作曲することが出来ました。

 1年後の1944年、ボストンで、クーセヴィツキー指揮、ボストン交響楽団により、初演が行われ、指揮者クーセヴィツキーも四半世紀にでるかでないかの作品とたたえました。

 今では、後世にまで残る大傑作の作品だと誰もが認めるところです。

 

 この曲を聴くと、各種楽器に、きらびやかな名人芸を与えているのが特徴です。

曲は、伝統的な調性への回帰にはっきりと傾いていているので、アメリカで、聴衆もとっかかりやすかったと思います。「管弦楽のための協奏曲」では、東欧で、収集した民族素材にひたりながらも、20世紀の革新的な音楽という、新たな音楽の時代を切り開いた曲と言えます。

 ここは、アメリカのオーケストラで聴くのが良いと思い、

エサ=ペッカ・サロネン指揮 ロスアンジェルス・フィルハーモニックで聴いています。

アメリカのオーケストラは、明るい音色のイメージを持っていましたが、この演奏CDは、弱音の音を大事にしている演奏で、ほの暗さを感じる演奏です。

 

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ドビュッシー:ボードレールの5つの詩から 歌曲「噴水」管弦楽版とピアノ版で聴く


 ドビュッシーは、パリ音楽院に在学していた10代から、歌曲を作曲していたと言います。今回、聴いていて、心地よいと思った歌曲は、ボードレールにより1887~1889年に書かれた詩集「悪の華」から、採られた「ボードレールの5篇の詩」のなかにある、「噴水」です。内容は、愛の楽しみと悲しみを、表現した歌です。

 

 ここ最近、フランス歌曲を中心に聴いています。プーランク、ラベルを聴きましたが、特に、ラベル作曲の歌曲全般は、20世紀におけるやや、前衛的な曲調が多く、ここ最近の少し疲れぎみの私の気分になじみませんでした。

 その点、ドビュッシーの歌曲は、いろいろな歌曲を聴いたのですが、(急に音が飛ぶようなこともなく、)まとまった音域、音符の中で、曲が構成されていて、聴いていて、楽しめますし、リラックスできます。変にドイツ風(的)に、ゴツゴツしてなく、なめらかな、雰囲気で、心地よく聴けました。

 演奏は、プーレーズ指揮、クリーブランド管弦楽団による、管弦楽曲版による「噴水」ソプラノは、アリソン・ハグリー。

 また、ピアノ版は、ダルトンボールドウィンのピアノ、ジェラール・スゼーのバリトンです。

 こちら、バリトンによる歌も良く、おとなしめの穏やかな伴奏に乗って、歌がなめらかに聞こえます。この一曲だけ聞いてもドビュッシーという作曲家が、素晴らしいきらめきを持っていたことを、改めて知ることが出来ました。

 今回、このブログを書くにあたり、歌曲「噴水」を管弦楽曲版でも、ピアノ版でも何回も聴きました。いい曲です。

 同時代に、同じ国、フランスの印象派作曲家が現れことは、特異なことで、印象派とは言え、両者の管弦楽曲、どちらも惹かれますし、ピアノ曲も、とても、魅力があります。

 

ブーレーズ作曲:主のない槌・・思いのほか聴きやすく(20世紀考察)

ピエール・ブーレーズとの出会いは、ブーレーズが、指揮するクリーブランド管弦楽団ストラヴィンスキー、「ペトルーシュカ」と「春の祭典」でした。現代作曲家ということは、知っていましたが、明晰な頭脳を持つ作曲家というイメージでもって、ストラヴィンスキーのCDを聴いたときは、意外にまろやかな音楽を奏でていて、私にとり、ストラヴィンスキーの初めてのCDということもあり、今でも大切に聴いているCDの一つです。

 作曲家という観点では、20世紀の現代作曲家に、すぎないだろうという判断で、作品を聴く機会はありませんでした。

 最近、ユニバーサル・ミュージックから、「クラシック百貨店、フレンチクロニクル」という企画で、数種類のフランス音楽が販売される中、ブーレーズ作曲の有名曲もあり、聴いてみました。

 CD冊子には、作曲家ブーレーズは、作曲を完全な偶然に委ねるジョン・ケージの手法を批判し、、作曲家が、偶然性を部分的に導入しつつもも、それを管理する「管理された偶然性」を提唱したと、書かれています。

 先入観なしに、「ル・マルトー・サン・メートル」(主のない槌)を聴くと、打楽器が比較的、表にでた、主役近くにいる作品です。ソプラノによる詩の朗読もありますが、意外にも聴きやすいです。ただ、古典派、ロマン派、後期ロマン派からは、程遠く、CDを流すにしても、気分が穏やかになりたく、モーツァルトを聴くや、美しい音楽を聴くとして、シューマングリーグを聴くということには、遠いです。

 あくまで、現代音楽を聴くという気持ちを持った時に、聴く音楽です。

とはいえ、音楽は、打楽器、アフリカ音楽が頭に浮かぶような、原始的な世界を讃える感想を私は、持ちました。

個々それぞれの楽器、朗読される詩に耳を傾けると、やや不思議な空間にいざなわれます。とはいえ、ロマン派の音楽に聞き惚れ、陶酔するとは、異なりますが…。

 

私は、いつも思います。ロマン派の音楽以降、印象派、20世紀のラフマニノフや、ガーシュインマーラーの音楽は、聴く人を、聴く人の心を意識して書かれた音楽。

 聴いていて、心地よい。これでもかの、時には、甘いメロディ(特に、ラフマニノフ、ピアノ協奏曲や交響曲第2番など、またマーラーの11の交響曲集)が、音楽の神髄(本来の姿)だと思います。なぜなら、聴いていて楽しいからです。

 

 一方、シェーンベルクを初めとして、現代音楽の分野は、なぜか、聞き手に、聴く覚悟を強いると思います。音楽家のための音楽といいますか。

 もう今は、21世紀です。古典回帰では、ないですが、メロディを重視する音楽傾向に戻っても良いと思います。

 20世紀の百年は、音楽に奉仕する人々が、模索した時代に思えてなりません。

 今回紹介した、ブーレーズの曲は、ブログを書いている間、聴いていましたので、不快ではないのです。ただし、メロディ、いわゆる、口ずさむ歌とは、趣きが異なります。名曲と呼ばれる曲は、歌心にあふれています。ヴィバルディの夏や、へンデルのメサイヤコーラスや、プッチーニのアリアなどなど、、

 当時を取り巻いていた20世紀という世界が、政治的にも、地理学的にも、人々の意識を超える動きをしていたからなのかなとも、思いました。

 21世紀は、人工知能の時代が、数年単位で発展して、人間世界の営みを凌駕する分野も出現し、日々生きる私にも、実感できます。だからこそ、歌心のある曲が聴きたいです。そうした曲を作る作曲家も、あまた、いますので、応援したいです。