ピエール・ブーレーズとの出会いは、ブーレーズが、指揮するクリーブランド管弦楽団、ストラヴィンスキー、「ペトルーシュカ」と「春の祭典」でした。現代作曲家ということは、知っていましたが、明晰な頭脳を持つ作曲家というイメージでもって、ストラヴィンスキーのCDを聴いたときは、意外にまろやかな音楽を奏でていて、私にとり、ストラヴィンスキーの初めてのCDということもあり、今でも大切に聴いているCDの一つです。
作曲家という観点では、20世紀の現代作曲家に、すぎないだろうという判断で、作品を聴く機会はありませんでした。
最近、ユニバーサル・ミュージックから、「クラシック百貨店、フレンチクロニクル」という企画で、数種類のフランス音楽が販売される中、ブーレーズ作曲の有名曲もあり、聴いてみました。
CD冊子には、作曲家ブーレーズは、作曲を完全な偶然に委ねるジョン・ケージの手法を批判し、、作曲家が、偶然性を部分的に導入しつつもも、それを管理する「管理された偶然性」を提唱したと、書かれています。
先入観なしに、「ル・マルトー・サン・メートル」(主のない槌)を聴くと、打楽器が比較的、表にでた、主役近くにいる作品です。ソプラノによる詩の朗読もありますが、意外にも聴きやすいです。ただ、古典派、ロマン派、後期ロマン派からは、程遠く、CDを流すにしても、気分が穏やかになりたく、モーツァルトを聴くや、美しい音楽を聴くとして、シューマンやグリーグを聴くということには、遠いです。
あくまで、現代音楽を聴くという気持ちを持った時に、聴く音楽です。
とはいえ、音楽は、打楽器、アフリカ音楽が頭に浮かぶような、原始的な世界を讃える感想を私は、持ちました。
個々それぞれの楽器、朗読される詩に耳を傾けると、やや不思議な空間にいざなわれます。とはいえ、ロマン派の音楽に聞き惚れ、陶酔するとは、異なりますが…。
私は、いつも思います。ロマン派の音楽以降、印象派、20世紀のラフマニノフや、ガーシュイン、マーラーの音楽は、聴く人を、聴く人の心を意識して書かれた音楽。
聴いていて、心地よい。これでもかの、時には、甘いメロディ(特に、ラフマニノフ、ピアノ協奏曲や交響曲第2番など、またマーラーの11の交響曲集)が、音楽の神髄(本来の姿)だと思います。なぜなら、聴いていて楽しいからです。
一方、シェーンベルクを初めとして、現代音楽の分野は、なぜか、聞き手に、聴く覚悟を強いると思います。音楽家のための音楽といいますか。
もう今は、21世紀です。古典回帰では、ないですが、メロディを重視する音楽傾向に戻っても良いと思います。
20世紀の百年は、音楽に奉仕する人々が、模索した時代に思えてなりません。
今回紹介した、ブーレーズの曲は、ブログを書いている間、聴いていましたので、不快ではないのです。ただし、メロディ、いわゆる、口ずさむ歌とは、趣きが異なります。名曲と呼ばれる曲は、歌心にあふれています。ヴィバルディの夏や、へンデルのメサイヤコーラスや、プッチーニのアリアなどなど、、
当時を取り巻いていた20世紀という世界が、政治的にも、地理学的にも、人々の意識を超える動きをしていたからなのかなとも、思いました。
21世紀は、人工知能の時代が、数年単位で発展して、人間世界の営みを凌駕する分野も出現し、日々生きる私にも、実感できます。だからこそ、歌心のある曲が聴きたいです。そうした曲を作る作曲家も、あまた、いますので、応援したいです。